「◯にたい」と「バカンスに行きたい」は同じ意味

人生は一人旅だと言われています。

そう聞くと、

そんなことはない、

私には親や兄弟、友人知人、妻や子供がいる、
という反論もあるでしょう。

しかし、ここで一人と言われているのは、

友達がいない、
家族も恋人もいない

という意味ではありません。

心のことなのです。

心の底から分かり合える友達がいないということです。

表面上の付き合いはできても、

本当の事を言ったら嫌われてしまいます。

なるべく本心は言わずに、相手に合わせるのが、

無難な生き方です。

だから、表面上の言動だけ見ても、

その人の本心は分かるものではありません。

ある時、

女性から「私は何もかも嫌になって、もう死んでしまいたい」と

悩みの相談をされたことがありました。

しかし、その女性は衝撃的なことを言ってくれたのです。

「でも本当に死にたいんじゃあないんです。

 本当に死にたいなら、一人で死にます。

 私が言う「死にたい」は、「バカンスに行きたい」と同じこと。

 目の前の苦しみから、離れたいだけなんです」

言葉では、「死にたい、死にたい」と言っている人でも、

本心は全く別にあります。

相手の言葉を真に受けていては、相手の心が分からなくなってしまいます。

表面的な言葉や表情、態度からはうかがい知ることのできない心を抱えているんだなと改めて思いました。

仏教で、人間は阿頼耶識と言う、誰からも見られることのない、

垣間見ることもできない蔵のような心を持っているなと言われています。

分かり合いたいのに、分かり合えない。

そんな心のすれ違いを、

感じたことがない人がいないのではないでしょうか。

すれ違いばかりの世の中なので、

自分が悩んでることを分かってくれるとそれだけで幸せな気持ちになります。

朝から笑顔でいても、

実は悩みを抱えている時、それに気づいてくれて

「どうしたの、大丈夫?悩んでる様子だけど…」
と優しく声をかけてくれる人がいれば、どうでしょうか。

さりげない気遣いがどれだけ嬉しいか分かりません。

しかし、

現実では、そこまで私の気持ちをわかってくれる人ばかりではありません。

「どうして、分かってくれないのか」
「なぜ、こんな私の気持ちを逆撫でするようなことを言うんだろうか」
と思うことばかりです。

「分かってもらえない、分かってもらえない」と感じると
自分だけが孤独だと感じると寂しさが倍増します。

しかし、自分だけでなく全ての人が孤独なのだよと仏教で教えられているのです。

よくよく考えてみると私自身も他人のことを分かってあげることができません。

お経には「独生独死独去独来」と言われています。

独り生まれ、独り死に、独り去り、独り来ると、人生はずっと一人ぼっちだということです。

そんな孤独な人生で、心から満足できる幸せを仏教で教えられています。